100周年記念教員インタビュー Vol.1(前編)に続く後編をお届けします。
ーシュタイナー学校を出たわけではない大人(教師や保護者)がシュタイナー教育はいいものだと知って、確信して学校に出合えたことが不思議です。長井先生はどんなきっかけがあったのですか?
もともと教師になりたくて小学1年生で作文にもそう書いた。先生は何でも知っているからと。高校3年生では歌って踊れる教師になると宣言した。大学は教員養成系だったが、その頃から何となく自分の居場所は公立学校ではない気がしていた。高校は美術系だったので、美術教師を目指し、初の海外美術研修旅行はヨーロッパでドイツ、オランダ、イギリス、フランスに行った。大学2年生だった。旅行から帰ってきた直後、本屋で「ミュンヘンの小学生」をみつけ、読んでみると目からうろこが落ちた。面白そうな学校だと思ったが、当時日本にはなかった。がちょうどそのときマリーシュタイナーからオイリュトミーをならった大御所エリゼ・クリンクさんのワークショップに参加したり、たまたま大学内にシュタイナー教育に興味のある同級生がいて、その人の誘いでシュタイナーハウスに行ったりした。その頃はちょっとした留学ラッシュで、ちょうど隅田先生もオイリュトミーの勉強に行かれた。すでにドイツでオイリュトミーを学んで帰ってきた上松恵津子先生のオイリュトミークラスに通った。勉強する仲間もできたし、留学する人もいたが、自分は引っ込み思案で最初は海外留学なんて考えられなかった。
その後、大学を卒業し、公立小学校の個別支援級でパートタイムの補助教員として2年働いたことがよかった。というのは健常の一般級の子どもは、教師の都合に合わせてくれているから分かりにくいが、そのクラスの子どもは今は休みたいとか走りたいとか本心はこれがやりたいとがそれぞれにあるというのを知ることができたから。一人ひとりがそれぞれに発達の道筋があるとか、寄り添わないといけないこととかという教育の原点を若いうちに知ることができた。大きな教室では分かりにくいと思う。そして自分はやはり公立ではないところで教師になろうと思った。たまたまドイツ留学を後押ししてくれる人が現れ、両親を説得してくれた。25歳の時だった。
ー幼児教育協会30周年の講演でもドイツで自分は強く望んだわけではないのに教師になることを応援してくれる人や子守をかって出てくれて養成講座に出られるよう助けてくれたり、日本にシュタイナー幼児教育を根付かせるために難しい最終試験に合格するようサポートしてくれた方がいたという話を聞きました。
なんか役割があったんですよね。準備されていたというか。助けてくれる人がいるんですよね。この学校ができたのも松田仁先生がきっかけをくれたんです。当時、自分は私立小学校の教師と土曜クラスの二足のわらじを履いていた。でも松田先生が鴨居の土曜クラスにやってきて「そろそろ横浜に全日制の学校を作らないといけないと思うんです」と言ってきた。その時は自分たちで学校をつくるなんておこがましいという思いもあったが、保護者の中にも準備会に入る人がいるときき、2002年の春、土曜クラスの慰安旅行の温泉地で、神田昌実先生、隅田みどり先生、当時土曜クラスでオイリュトミーを教えていた石川公子先生と、自分たちにできるだろうかと真剣に問い、「やろう!」と決めた。その4月に「作る会」が発足された。
その時にアメリカから帰ってきたばかりの浜本先生がいた。土曜クラスの保護者であった太田さん、寺島さんや、大西さん(お父さん)がいた。その「つくる会」のメンバー20人で資金をいくらまで出せるかを紙に書いて集計したら、1000万円以上あった。そのお金で霧ヶ丘校舎を借りることが出来、約束の期限通り2005年、3年後に開校することができた。
ー20人で1千万といったら平均一人50万円ですが、その後、戻してもらうとかはなかったんですか?
ないですよ。いまだに出しっぱなしです。最初は給料だって出ると思っていなかったです。初期資金は返してもらうものとか、そんなことを考えていた人はいません。その時の気運です。今はもう、離れてしまった人もいますし。
ーその方々の意志と働きとお金があって今が、この学校が、あるんですね。ありがたいです。伝えていかないとならないです。
そうですね。機会があれば。普通、シュタイナー学校は自分の子どもを学校に入れたいという親と教育に携わる教師とで始めるが、横浜の場合は自分の子どもは大きいし入れないけれど、この教育がいいものだと知っているから応援するよ、という3本目の柱があるのが自慢したい特徴です。それが今のスクールショップの星の金貨です。
ー横浜シュタイナーどんぐりのおうちは総会の時に必ず、学園の一室を借りて始めたこと、今の物件で幼稚園をつくるまでのことなどの原点を話しています。次につながるエネルギーになる感じがします。
学園でも少し前には総会の時か年度初めの会議の時に、つくる会からの話をして、それを聞いて感動の涙を流した人を運営委員に誘おう、などとまことしやかに言っていた時がありました。「あの人泣いてたよ」と声をかけたり(笑)。
ー100という節目はシュタイナー的にどう考えたらいいのでしょうか?キリストの生涯の33年の3倍というのは定説なんでしょうか?
これはうがった見方で「知る人ぞ知る」みたいなものです。普通だいたい33年は1世代でしょう。人間の3世代。4年生の郷土学でも親とそのまた親のように人間の一世代の営みという意味でそんなに遠くなく、イメージしやすい。100年は3代です。商売も一代で消えるとか持続して2代目、3代目とか「代」で話すと把握しやすい。10の十倍というより33の3倍のほうがイメージしやすい。
ー100年は祝祭ですか?
これまでの100年を振り返り、次の100年はどうやって行こうかなと居住まいをただす節目。「わ?、やった!」というめでたさではなく、ミカエル祭、クリスマスという祝祭でもない。今ある自分たちを見直すことにもなるし。本当は節目がなくても毎日自分を見直せればいいんだけど、せっかくの大きな節目だから来し方を眺めて何が大事だったかな、と眺めて振り返りながら、じゃその本質って次のためにどう生かしていけるのかなって思うのにちょうどいい時なんじゃない。 今までやらなかったことをやってみる勇気とか一歩踏み出してみるとかですかね。
ー先生は今までやらなかったこととかこれからやろうとしていることって何かありますか?令和になりましたし。
自分は来年担任になるかどうかとか。そうそうこういうサバティカルな立場でもいられないし、決めないとならないのですが、今はまだわかりません。規則では、担任を始める時点が定年前ならいいのですが。高等部の美術史も面白いんです。研究したいです。今回縁あって愛知に行きますが、他校との交流や、千葉や仙台の小さなシュタイナー学校を学校協会の正会員になれるように応援するお手伝いなどを、今年はしていきます。
ー先生のドイツ時代のこともお聞きしたかったのですが、時間が無くなってしまいました。第二弾の時に教えてください。貴重なお話をどうもありがとうございました。
(聞き手 Y100メンバー 4年生保護者 鈴木真奈美)